暫く待ってみたが返事がない。不思議に思いながらもドアに手を掛ければあっさりひらき、美里は軽く声を掛けながら室内に踏み込んだ。
「いらっしゃらないんですか、先生……?」
室内に人の気配はなく、返事はやはり返ってこない。鍵が掛かっていないということは、きっとすぐに戻ってくるのだろう。
仕方なく、美里は再度火傷部分を冷やすために、取りあえず流しへ向かった。
流水に手を浸しながら、窓の外へ視線を向ける。
いい天気だった。誰もいない校庭に、秋の日差しが降り注いでいる。思考することすら放棄して、ただただ目に映る景色を見ていた。
そんな中。
「失礼します。河東の容態は……」
よほど慌てていたのか、ノックもなくドアが開き、雅善の声が飛び込んできた。
驚いて入り口を振り返った美里の目に、ズンズンと歩み寄ってくる雅善の切羽詰ったような表情が映る。
「授業、は……?」
「少し早めに切り上げた。それより怪我は? 手当て、してへんの?」
雅善は流水に浸された美里の手に視線を投げかける。
「ああ。校医の先生、不在みたいで。手もたいしたことなさそうだし、鐘鳴っても戻ってこなかったら、教室戻る気でいた」
「ちょお見せて」
乞われるままに濡れた手を差し出せば、躊躇うことなくその手をとり、怪我の様子を探るようにジッと観察された。
昨日、あんなことをした相手の手を、こうも心配できるのはなんでだろう。この躊躇いのなさの意味を、どう受け取ればいいのだろう。
「ヨシ、ノリ……?」
ふと顔をあげた雅善が、不思議そうに名前を呼んだ。
ホント、何から何まで、ズルイ。
「教師と生徒になれって、そう言ったのはアナタですよ、西方先生」
「あっ……」
「アンタ、ズルイよ。こんな風に心配して、それは教師としての責任からなのかも知れないけど、それでも俺は、誤解しそうになる。ガイに、少しは特別に思われてるんじゃないかって、さ」
雅善の手の中から、そっと自分の手を取り戻そうとした美里は、その手をキュッと握られ動きを止めた。
「西方、先生?」
呼びかけに、雅善の瞳が悲しそうに揺れる。
「あ、あのな……」
「手、放してください。じゃないと俺、先生をまた困らせるようなこと、言いますよ」
更に強く握り締めてくる暖かな手。けれど、雅善自身の口から、思いを肯定するようなことは言って貰えない。
言って貰えないけれど、繋がった手から、雅善の想いが伝わってくるような気がした。だから、そんな雅善の立場ごと、丸ごと全部絡め取ってやればいいのだと思い至る。
美里はゆっくりと口元に笑みを浮かべて見せた。
「ガイが、好きだ。校内では今後一切そんなことは言わない。だから代わりに、俺が卒業するまでは知り合いさえ居ない様な、どこか遠い場所へ遊びに行こう?」
「そんな……ん、」
「頼むよ。ダメだなんて、言わないでくれ」
ガイが困らない範囲でいいから、付き合って欲しい。そう頼み込む美里に、雅善はやはり少し困ったような顔で考え込んだ後。ようやく頷いて、その頬を赤く染めていく。
「ワイも、美里を好きやで」
ホッと息を吐き出す美里の耳に、校内では二度と言わないという注釈付で、そんな言葉が囁かれた。
**********
自宅の最寄駅からは大分離れた場所にある小さな駅を降りた美里は、駅前のロータリーに停車する一台の車に、迷うことなく向かって歩く。
雅善が車持ちだったので、二人で過ごす時間は車の中がダントツに多い。
本当は助手席に雅善を乗せて自分が運転したいのだけれど、免許の取得は受験が終わってからと決めている。親にも友人達にもそう宣言していたことを最初は少しばかり悔やんだけれど、ハンドルを握る雅善をのんびり観察するのも楽しいので、もう暫くはこの状態に甘んじて居ようと美里は思う。
互いの家に行き来することも、街中を並んで歩くことも、今はまだ出来ないけれど。来年の春、桜が咲く頃にはそれらの夢も叶うだろう。
美里が近づくのに気付いて口の端を持ち上げる雅善に、自分も同じように笑いかけてから、残りの距離を急いだ。
<END No.3>
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