親切なお隣さん20

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 思わず額を押さえてうなだれてしまったが、弟の視線が刺さって顔を上げる。
「なんだよ」
「別に……つか兄貴、戻ってくるんだよな?」
「昼間父さんにも言ったけど、学費の目処は立ってる」
「それは俺もアイツに聞いた。奨学金? 借りれるんだろ」
 どうやら弟も、お隣さん経由で聞いていたらしい。
「じゃあわかってるだろ。戻らねぇよ」
「すぐにって話じゃなくて。卒業後の話」
「いや、戻るつもり無いけど」
「なんで?」
「なんで、ってこっちで就職したいから」
 流れ的に、実家に戻りたくないって気づけよと思いつつも、そこに言及されてしまうと、最終的には「お前に稼いだ金を吸われる生活が嫌だ」って話になってしまいそうで一応避けた。
 どうせ、実家の金銭面の実情を全く認識してない弟に言っても信じないだろうし。
 惜しみなく金を注ぎ、応援に駆けつけ、外から人を雇って家の中の掃除を頼み、自炊せずに通販を多用している親が、実は金に困っている。なんて言っても、信じられないのは当然だとは思うけども。
 ただそんな言い方を選んだせいで、ここに拘りがあると思われてしまったのは失敗だった。いやまぁ、今となってはそっちの比重のが大きい気もするし、むしろあの発言は、とっさに本音が出ただけだったのかも知れない。
「まさかアイツのせいじゃないだろうな」
「アイツのせいってなんだよ」
「金のために媚びてるんじゃなくて、惚れてるとか言わないよな?」
「好きじゃなきゃ続けないだろこんなこと。てかキスしてんの見ただろ。むしろあれ見てまだ、金のために媚びてるって発想になるお前のがヤバくない?」
 お前好きでもないやつとキスすんの? と聞いたら、ひときわキツく睨まれてしまう。
「マジか」
 思わずそうこぼれてしまったのは、弟には好きでもない相手とキスした経験があるのだと、気づいてしまったせいだ。
「まぁお前、無駄に愛想いいもんな」
「うるせぇ、兄貴に何がわかるってんだよ」
「いや何もわかんないけど。でもわかる必要もないっつうか、お前がそれでいいなら好きにすればとしか」
 なんせ自分だってパパ活経験者だ。好きでもない、それどころか初対面の相手と、キス以上のことだってしている。
 だからこれは、自分ならこういう反応が有り難い、という意味合いが強かった。わかってくれる必要はないし、どうこう言われたくもない。
「あ、でも、一応聞いとくか。お前のその選択に、俺は関係してないよな?」
「なんだそれ」
「お前が俺のために身を張るとか絶対ないって思うから、聞くだけ無駄って気もするけど。でももし、キスさせなきゃお前の兄貴ボコボコにしてやる、とか言われて仕方なく応じた、とかならお前が俺に向かって怒るのも理解できるなと」
 俺が一切関係ないのに理解しろって怒ってんならただの八つ当たりだろ、と指摘してやれば、弟は嫌そうに口を噤んだ。
「兄貴、変わったよな。それもアイツのせい? アイツに惚れたから、俺のことどうでも良くなった?」
「俺がお前に強気であれこれ言えるのは、ここが実家じゃないからだよ。家じゃお前と言い合いになった段階で、どんな理由だろうと俺が悪者じゃん。まぁそれ言ったら、お隣さんがお前の味方につかなかったから、ってのは確かに大きいな」
 ついでに、ずっと気になっていた、なぜお隣さんに愛想を振りまかなかったかを聞いてみた。
「お前なら、いつもみたいに愛想振りまいて、俺が帰ってくる前にお隣さんを自分に夢中にさせてるかと思ってた」
「俺をただ遊びに来た弟だと思ってるだけの貧乏人に、愛想振りまく理由ないだろ。まさか兄貴と出来てるとか思ってなかったし」
 出来てはいない。けど、付き合ってるわけじゃないとか、恋人じゃないとか、言ったら面倒なことになりそうで、そこはあえてスルーした。
「俺の帰りを寒い中待たずに済んだのに、有り難いとか思わなかったの?」
「むしろあの距離感、キモい以外ある?」
 兄貴と付き合ってるってわかったあとでも結構無理、とまで続いた言葉に、思わず苦笑が漏れた。
「あー……」
 出会った最初、相手に向かって「アンタ頭大丈夫?」と繰り返し言った記憶がよみがえる。

続きました→

 
 
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親切なお隣さん19

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 弟が風呂から出たあとは、こちらも急いで風呂を使う。部屋に入ってくるなり何か言いたげにしていた弟のことは、風呂は連続ですぐ使わないと光熱費が勿体ない、という言葉で黙らせた。
 どうせ一組しかない布団に気づいたせいだろう。そしてその件はこちらが風呂に入っている間に、弟の中で何かしら折り合いをつけたらしい。
 部屋に戻っても、一組しかない布団については特に言及されなかった。
「一応言っておくと、布団はそれしかないから」
「見りゃわかる」
 布団の真ん中に胡座をかいて座る弟は、手の中のスマホから視線を上げもしない。それはこちらが布団の端に腰を下ろしても変わらなかった。
「で、お前がここ来た要件ってなに? まさか祖母ちゃんとこ顔出さなかったから俺の顔見に来た、なんてことは言わないよな?」
 弟はスマホを見つめっぱなしで返答がない。小さくため息を吐きながら、ホント何しに来たんだよ、と思う。
「話すことないなら俺は寝るし、寝る時はエアコンも切るからな。起きてたきゃ好きにしていいけど、電気も消すから」
 そこまで言ったらようやく弟が顔を上げてこちらを見たが、その顔は不機嫌そのものだ。まぁそんな顔をされたって、親元から離れた今はもう、弟の機嫌を取ろうなんて考えもしないけれど。
「それもある。っつったら兄貴的にはどう思うの?」
「は? それ?」
「兄貴の顔見に来た」
「本気で言ってんなら、元気にやってんのわかって満足したならさっさと帰ってくれ、だな」
「それだけ?」
「それだけってなんだよ」
「会いに来てくれて嬉しい、みたいなの」
「あるわけないだろ」
 思わず即答してしまったが、ますます機嫌が悪くなるかと思った弟は、何やら考え込んでいる。
「つまり、帰省費用が出せないからって理由で帰らなかったわけじゃない、ってこと?」
「出せなくはないけど、わざわざ金かけて帰る理由がない」
「理由……って祖父さん?」
 祖父さん以外には会いたくないから帰ってこなかったのかと聞かれて、そうだよと返した。
「祖父さん俺が金ないのわかってたし、ちゃんと足代くれてたからな。それに俺を大学に通わせてくれてたの祖父さんなんだから、顔見せにおいでって呼ばれたら行くに決まってんだろ」
 ちなみに正月だけじゃなく、盆にも祖父宅には顔を出していた。祖父の夏休みに合わせて呼ばれていたからだ。
「じゃあ祖母ちゃんとか父さんが帰ってこいってお金出したら帰って来る?」
「いや多分断るかな。っつうか俺に金なんか出さないと思う」
 祖父に会いに行くときは当然祖父宅に泊まらせてもらっていたし、家事なんかは率先して手伝っていたけれど、祖母はやはり少し迷惑そうにしていた。祖父が孫たちのために出した金額の詳細はわからないけど、自分の学費分だけだってそれなりの金額だし、想像が当たってて弟へも援助してたなら、祖母が自分の大学進学にいい顔をしないのも納得は行く。
 自分が素直に就職していたなら、祖父宅はもっと豊かな生活が出来るはずだったのだから。
「別に俺に会いたいとも思ってないだろ。だからお前がマジに俺に会いに来たって言うなら、嬉しいってより意外でしかないな。お前も俺に会いたいなんて思わないと思ってた。つうか今もそう思ってるけど」
「父さんは兄貴が帰ってこないの、結構不満そうにしてるけど。早く大学なんか辞めて帰ってくればいいのにってしょっちゅう言ってるし、今日も兄貴が来てないの知って怒ってたし」
「それ、俺に会いたいわけじゃないだろ」
「なんで? 兄貴と会えると思ってたのに会えなかったから腹立ってんだろ?」
「今日会えなくて腹立ったのは、俺にさっさと大学辞めて帰ってこいって話をするつもりだったから。俺に帰ってきて欲しいのは、就職した俺の給料目当て。それだけだよ」
「そんなことないだろ。まぁ、母さんが兄貴に戻ってきて欲しいのは、家事頼みたいからっぽいけど。つか母さん、兄貴より家事下手じゃね?」
「お前につきっきりであまり家事やってこなかったせいだろ。あんなの慣れなんだよ」
「じゃあ外注してたらいつまでも上手くならないじゃん」
「外注?」
「兄貴大学入ってから、時々掃除する人頼んでるけど。あとコンビニ弁当は出されないけど、あんま料理もしてないっぽいっつうか、通販? とかでなんか色々買ってる」
 最初は当たりハズレでかかったけど最近はそれなり、なんて言っているけれど、それは弟の反応を見て買う商品を絞ったってだけだろう。弟がそれなりに美味いと思うような商品が、どれくらいの価格なのか想像もつかない。
「まじかよ……」
 どこにそんな金がと思ってしまって、頭が痛くなりそうだ。

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親切なお隣さん18

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「ほら、風呂沸いたから入ってこい」
 タイミングよくタイマーが鳴ったので、弟を風呂場に追い立てる。
 風呂場は台所から続いた先にあって当然エアコンなんて効いてないので、やっぱりめちゃくちゃ寒いと文句を言われたけれど、お前が入んないなら俺が先に入るといえば、渋々ながらも服を脱ぎだす。
 冬場だし、一日くらい風呂に入らなくたっていい、って言うならもうそれでいいって気持ちもあったんだけど。でも先に入るって言ったことで、一番風呂を兄に譲りたくはないって気持ちが刺激されたらしい。もちろん、知ってて言った。
「寒いのわかってるならよく温まってこい。あと替えの下着とか寝間着とかタオルとか、全部俺が普段使ってるやつだけど、一応用意はしてやるからそこ文句言うなよ」
「買い置きの新品とかは?」
「あると思うか?」
 小さな舌打ちのあと貧乏人と吐き捨てながらも、それ以上は何も言われなかったので、弟が全裸になる前にさっさとその場を後にした。
 着替えやらを用意したあとは布団も敷いたが、もちろん、来客用の布団セットなど用意があるはずもない。
 今からでも帰るって言わないかなと思ったりもしたけれど、寒い寒いと文句を言いつつ風呂まで入っている弟に帰る気はないだろう。まぁこんな小さな布団で一緒に寝るのは絶対嫌だとごねられて、畳で寝ろとか言い出したら、いっそお隣さんの部屋に避難するのも有りかと思う。
 コタツで寝かせてって言ったら嫌な顔をしそうだけど、断られたら畳で寝る羽目になると訴えれば許可はしてくれるだろう。
 そこまで考えて、結局いまだ弟の来訪理由が聞けてないなと思う。
 さっきの発言からもわかるように、弟は実家の経済状況の事実を知らないし、親ほど長男が実家に戻って就職することに拘ってもいないはずなんだけど。
 と思ったら、さっきのやり取りを思い出してしまって、溜息がこぼれでる。
 お前は悪くないよと言った言葉に嘘はない。だって弟は、とあるマイナー競技の才能を、ちょっとばかり多めに持って生まれてきただけだからだ。
 その才を伸ばそうとして、金と時間を注ぎまくったのは親の選択で、弟至上主義な家庭方針で弟をわがまま放題に育てたのも親で、多分弟にも、そんな親の犠牲になった部分はある。
 親の期待を一身に背負う立場がどんなものか、自分にはわかりようもないけれど。でも、弟との扱いの差は歴然だったのに、弟を羨ましいと思ったことはなかった気がする。
 だってあの親からの期待なんて絶対重い。高校に上がってバイトが出来るようになった後、親からの家に金を入れろという圧には正直辟易した。あれも間違いなく、親からの期待ではあるだろう。その期待に応えられなかった時、親がどういう態度をとるのかというのも知っている。
 今にして思えば、期待通りの成績が出なかった時の弟の荒れ具合はかなり酷かったが、あれは親への牽制もあったのかも知れない。バイト代をどうにか徴収しようとする親に向かって、弟並みに荒れて暴れて抵抗していたら、もしかしたら自分も腫れ物扱いで放免された可能性はある。
 あの当時はそんなこと考えもしなくて、バイト代をどう隠し通すかばかり考えていたのだけれど。
 親からの洗脳に近い、自分も家族の一員として弟のために出来ることはやらないと、という気持ちが崩れたのも、その辺りからだったように思う。
 それまでは、弟につきっきりの母親の代わりに家事を覚えることも、小遣いなんてものはなく、最低限必要なものを渋られながら買って貰うことにも、そこまで不満はなかった。弟が頑張るためにはお金が掛かるから仕方がないって思ってたし、それが弟への協力なんだと思ってた。
 でも年齢があがって色々見えるものが増えたのと、少額とはいえ自分で稼ぐようになって、親のおかしさに気づいてしまった。
 うちが貧乏だった一番の原因は父親だ。弟の活動のために親として金を稼ぐ、という部分が明らかに欠落している。
 弟のことは母に任せて、自分は金を稼ぐって方向に父が頑張っていたら、うちは多分そこまで貧乏じゃなかった。
 でも父は弟を直接応援することを優先してたから、給料は勤続年数に合わせて上がるどころか下がったらしい。そりゃ遠征のたびに夫婦して応援に出かけてたら、有給なんてあっという間に消失するだろうし、遠征費が生活費を圧迫するのも当然だ。
 給料が減っても生活を改めなかったのだから、うちが弟の成長に合わせて、どんどん金に困っていくのは必然だった。なんせ、成長するにつれて遠征先があちこち増えた。それは、あちこち行く必要があるくらい、弟がちゃんと活躍していたとも言えるのだけど。
 ただそれを、長男が就職すれば金銭面は大幅に解決すると思っているらしいところも、やっぱりだいぶオカシイ。まぁ反抗らしい反抗はしてこなかったし、表向きバイト代は全額親に渡していることになっていたし、弟の頑張りは一応認めていたし応援する気持ちだってあったから、就職したら文句もなく給料を全額差し出すと思っているんだろうけれど。
 推薦が貰えるくらい成績がいいなら大学には行ったほうがいいと祖父が言ってくれたから。渋る親を説得、というよりは多分、弟にも金を出すって方向で納得させてくれたから。祖父の協力の元、こうして高校卒業と同時に親元を離れられたけれど。でももしあのまま就職していたって、遅かれ早かれ家は出たと思う。

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親切なお隣さん17

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 お隣さん宅と違って、不在時にもエアコンを稼働するなんて真似はしないので、自室は当然寒かった。
「なんだこの部屋」
「なんだってなんだ」
「部屋寒いってレベルじゃなくね?」
 隣に移動するだけなのになんで上着なんか着込んでんだって言われて、ちゃんと部屋が寒いからって教えたのに。ボロアパートの冬の寒さなんて知らない弟は、当然こちらの言う事なんて聞かなかった。
「だから上ちゃんと着とけって言ったろ。今から風呂入れっから、沸くまで着とけよ」
「エアコンつけろよ」
「つけるよ。でも部屋があったまるまで時間かかるだろ」
「つかエアコン以外ないの?」
 ストーブとかコタツとかと言われて、見りゃわかるだろと返す。
「うち、お隣さんほど金に余裕ねぇから」
「それで隣に入り浸ってんのかよ。つかほぼ寝に帰ってるだけってのマジ?」
「お前が来なきゃ今日だってもうちょっとゆっくりするつもりだったよ」
「否定しないのかよ」
「まぁ事実だし。だって隣、人が居ても居なくても夏冬エアコン稼働してんだもん。お隣さん居ない時にもコタツ使っていいって言うし、課題やテスト勉強するのだって、この部屋でやるよりよっぽど捗るし。冷蔵庫でかいし、台所もこっちより断然向こうのが使いやすいし快適だし」
 1日中エアコンが稼働してる部屋から漏れてくる冷気や暖気に加えて、台所用にと夏は小型の冷風機を用意してくれたり、冬はホットマットを用意してくれているのだ。こっちに食材も調理器具もないと言ったとおりに、こっちの部屋では風呂と寝ること以外してないし、ほとんど物置扱いだ。
「そういや遣り繰り上手? とかってのは?」
「それ、言葉の意味聞かれてんの?」
 節約が上手いって意味だよと教えれば、そうじゃなくてと返ってきて意味がわからない。
「兄貴がなんか、アイツが喜ぶようなことしてんだろ?」
 あれは喜んでたのとはちょっと違う気がするけど。
「お隣さん、前は全部外食とかコンビニ弁当とかで済ませてたらしくて、かなり食費かかってたっぽいんだよな。だから俺がスーパーの特売品とか使いまくって2人分の飯作るほうが食費安く済むんだってさ」
 お隣さん的にも得があるとすればそこかなと思って言ってみたら、さすがに弟も少し驚いている。主に、2人分なのに作ったほうが安い、って部分に対してだと思うけど。
「パンと卵と、それにちょっとサラダやスープ付けても、2人分500円も行かないんだよ。でも朝からコンビニでサンドイッチとコーヒー買ったら、それだけで500円くらい行くだろ」
「1食250円!? 兄貴、そんな金すらケチってんの?」
 わかりやすく例を出してみたら、予想外な部分で更に驚かれてしまった。
「1ヶ月にしたら7500円になるだろ。それにもし俺一人だったら、朝なんてもっと金かけないよ」
「は?」
「一人ならパン焼いてお茶かコーヒーで終わりだもん。つまり、100円も掛けないしょぼい朝ご飯が、お隣さんのご飯作ることで250円にレベルアップしてるわけ。それをお隣さんのお金で食べれるんだから、お隣さんにもういいわって言われないように、安くてなるべく美味い飯作らないとってなるだろ」
「じゃあやっぱ、兄貴がアイツに色々してやってんのって、アイツを利用するためなんだよな?」
「やっぱってなんだよ」
「こんなとこ住んでる男に媚び売ったとこでたいしていい思い出来ないだろって思ったけど、兄貴に比べたら全然金持ってたんだな、アイツ。でも正直、兄貴には呆れてる」
「何にだよ」
「こんなとこ住んで隣のおっさんに媚び売ってまでして大学なんか行く必要あった? 別に高卒で働いたって良かったんじゃねぇの」
 そのための商業高校だったはずだろと言われて、そうだけどそうじゃないと思ってしまうのは、高校受験時に普通科という選択肢なんて無いに等しかったせいだ。
「それ、親父がさっさと俺に働いて家に金入れて欲しがってたってだけだから」
「でもここでこんな生活するより、実家から通える会社入って家に少し金入れる生活のが断然楽そうなんだけど。少なくとも実家なら、光熱費とか気にする必要ないだろ。他人に頼らなくたって、そこそこ快適な部屋も、ここより広いキッチンもあるんだし、250円の飯代ケチる生活とかしなくて済むじゃん」
 高校時代、父はバイト代の大半をどうにか奪おうとしてきたし、夏場や冬場の光熱費に文句を言われることはあったし、料理するのは必要に駆られてだし、家族に振る舞ったところで美味しいどころか感謝だって滅多に貰えないし、実家にいたら掃除やらの雑務もなんだかんだ押し付けられるのがわかりきっている。
 バイト三昧だろうと得た給料は全額自分で使い道が決められて、お隣さんに喜ばれて褒められまくる料理を作って、ボロアパートの狭い部屋を不快じゃない程度に維持する方が断然楽に決まってる。
「ばーか」
「はぁあ!?」
「まぁお前は別に悪くないよ。本当にアホなのは親父とお袋。だからお前は、お前がやるべきこと頑張っとけばいい」
 うちが貧乏なのはお前が原因だけど、お前は家の経済状況なんか知らなくていい。という部分はなんとか飲み込んだ。

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親切なお隣さん16

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 落ちた鍵を拾ったのはお隣さんで、二人ともちょっと落ち着いてと、険悪な雰囲気を宥めてくる。
「ここで一緒に食べるのは、光熱費の節約って意味もあるからさ。出来れば君も一緒に食べていってよ。ただ、さっきも言ったように無理に引き止める気はないから、先に一人で隣に戻ってても構わないんだけど」
 拾った鍵を差し出しながら、要る? と尋ねるお隣さんに、弟は渋々ながらも首を横に振って見せた。
「良かった。じゃあこれはお兄さんに返しておくね」
 数歩の距離を近寄ってきたお隣さんが、手を取って鍵を握らせてくる。そのついでみたいに顔を覗かれ、何かを納得したように頷かれたけれど、多分ついでだったのは鍵を持ってくる方だったんだろう。
「思ったより落ち着いてそう」
 家族との間に何かしら問題を抱えているのは知られているし、弟に会わせたくないみたいなことを言ったことだってある。
「おれもこっち居たほうがいいかな? 夕飯、なにか手伝えることある?」
 多分間違いなく、めちゃくちゃ気を遣わせている。でも自分自身、不思議なくらい落ち着いていた。弟が来てると知った瞬間の激しい動揺を、ほとんど引きずっていない。
 それは壁一枚隔てた先でお隣さんと弟が二人きり、なんて状況になっても、変わらないと思う。二人きりにしても、弟が付け入る隙はお隣さんになさそうだし、そもそも弟自身にそんな気がなさそうだ。それを今なら信じられる。
「いや、ないっす」
 部屋で待っててくださいと言えば、また一つ頷いて見せる。
「大丈夫なんだね?」
「はい」
「わかった。じゃあ、夕飯3人分、よろしくね」
 そう言って弟を促し部屋に戻っていくのを見送ったあと、引き戸がきっちり閉められるのを待って、大きく息を吸って吐いた。
 気持ちを切り替えてさっさと夕飯を作ってしまおう。
 冷蔵庫の中には、昨日の買い出しでお隣さんが、大晦日だしと景気よくカゴに突っ込んだ色々が詰まっているので、元々そう時間がかかるような物を作る予定ではなかったのも幸いした。
 ただ、切って盛っただけとか温めて盛っただけの夕飯は、弟にはだいぶ不評だった。
「飯炊きって、このレベルなら俺でも出来んじゃん」
「出来てもお前はやらないだろ」
「年末年始くらいは楽して貰いたかったから、おれが奮発したの。一緒に買い物いかないと、自主的に楽しようとはしないから困っちゃうよね。普段はちゃんと色々作ってくれてるよ」
 凄い遣り繰り上手なの知ってる? となぜかお隣さん自身が誇らしげに言うのを、弟は小さな舌打ちで返している。多分遣り繰り上手の意味はあまりわかってなくて、自慢されたことそのものが不快なんだろう。
 お隣さんが誇ることか? という気持ちはあるものの、でもやっぱり、褒められて嬉しい気持ちにはなる。
 まぁ喜んでばかりってわけにもいかないんだけど。だって、楽してもらいたいなんて話、今初めて聞いた。
「初耳なんすけど」
 スーパーで買い物するのが珍しいせいで、あれこれカゴに突っ込んでいたのかと思っていた。あれもこれも、気になる食べてみたいって言ってカゴに入れるから、それを素直に信じてしまった。
「言ったら買わせてくれないかと思って。それに、どれも美味しそうだったのも本当だし。実際美味しいし」
 美味しいよね? という問いかけに、だって値段がと考えてしまうのは仕方がないと思う。だから応じたのは値段を知らない弟の方が先だった。
「まぁ、悪くはないけど」
 でもコンビニ弁当よりはマシ程度、という評価を下す弟の舌は、甘やかされて贅沢に慣れている。でもお隣さんはそんな風には思わなかったらしい。
「せっかく慣れ親しんだ味が食べれると思ったのにガッカリした?」
「は? なんだそれ?」
「あれ? お兄さんが実家にいた頃、お兄さんのご飯食べてたんじゃないの?」
「そりゃ、あれば食ってたけど」
「これがコンビニ弁当よりはマシ程度に思えるくらい、久々にお兄さんの作るご飯食べれるって思って楽しみにしてたのかなって」
 美味しいもんね、というお隣さんの言葉は疑う余地もなく本気なんだけど。
「いやいやいや。こいつの舌が贅沢なだけっす。俺の飯だってコンビニよりはマシくらいにしか思ってないっすよ」
 どこそこで食べたなんとかが美味かった、的な自慢をされることはあったから、美味しいって思う感覚はあるんだろうけど。でも一緒に食事をしていて、この弟が美味しいなんて単語を口にしたことはなかったと思う。
「こいつと一緒に飯食っても全く楽しくないって言ったじゃないすか。こいつ、普通の飯に美味いとか絶対言わないんすよね」
「うるせぇな。だって本当に美味いもん知ってたら、特別美味くないもんを美味いとか言わないだろ。つか兄貴の飯が美味いって、貧乏舌ってやつなだけじゃね?」
「まぁ確かに食材に拘りとかないし、そこまで自分の舌に自信があるわけじゃないけどね。でもお金を積んで食べられる美味しいご飯とは、違う種類の美味しさもあるんだよ」
 あれが美味しいって思えないのは勿体ないねと、これも多分本気で言ってくれているから、胸の奥が温かい何かで満たされていく。弟を目の前にして、こんな風に自分を評価してくれる誰かがいるなんて、考えたこともなかったのに。
 その誰かがお隣さんで本当に良かった。
 弟の突然の来訪にどうなるかと思ったけれど、お隣さんは大丈夫。そう思ったら、嬉しいのと安心したのとで、気が緩んだんだろう。だから弟の機嫌がますます悪くなったことには気づいたものの、少しばかり調子に乗ってしまった。
 調子に乗って何をしたかと言うと、帰り際、いつも通りのキスをねだった。お隣さんは気を遣ってそのまま見送ってくれようとしたのに、いつものは? と自分から口にしてせがんで、躊躇うお隣さんに自ら口を寄せていった。
 なにか言われるかと思ったが弟は黙ったまま睨んできただけで、お隣さんの心配そうな「大丈夫?」の言葉に、ようやく少しばかり焦りだす。揉めるようなら呼んでいいからねと、そっと耳元に囁かれて、そういや弟の目的が何なのかも結局まだ何も知らないと思い出す。
 どう考えたって何かしらの文句を言いに来たはずで、わざわざここまで来てしまうくらい何かしら腹に溜め込んでいるのだろうから、揉めないはずがないのに。これは余計な揉め事の種を一つ、自ら増やしただけかも知れない。

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親切なお隣さん15

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 しかもなぜか、お隣さんは弟に取り込まれていない。お隣さんだって、弟に会ったら弟の味方になるんだろうって思ってたのに。
 信じられない気持ちもあるが、弟が不機嫌な声と態度で、お隣さんをあからさまに邪険にしていたのも事実だ。だからきっと、嫌われたと言ったお隣さんの言葉も嘘じゃない。
 いったい二人の間で、何があったんだろう?
 知りたいけれど、知らないままで居たい気もする。
「無理に引き止める気はないんだけど、一緒に食べていくのはどう?」
 弟と睨み合う中、緊迫感のない声を挟んできたのはもちろんお隣さんだった。
「お正月でちょっと奮発して色々買い込んだし、食材足りないってことはないよね?」
 足りないどころか、実はちょっと持て余し気味にある。
 家でも持ち帰った仕事をしてることが多いお隣さんだけど、さすがに年末年始くらいはちゃんと休むつもりだと言って、ここ数回の買い出しに付いてきていたせいだ。
 行き先はスーパーだけど、わざわざバイト帰りに待ち合わせているのと、お隣さんがやけに楽しげにするせいで、まるでデートでもしてるみたいな錯覚を覚えたのが少しばかり恥ずかしい。
 もしかしたら、欲求不満が溜まって、そんな錯覚を起こしているのかも知れない。お隣さんに抱いて欲しい気持ちはあるものの、結局、お隣さんに向かってはっきり口に出せてはいなかった。
 何度か口に出し掛けてるけれど、最後の最後で飲み込んでしまう。だって困らせるかやんわり断られる想像しか出来ない。抱いて貰える未来が見えなくて怖気づいてしまう。
「まぁ、金払ってるのアンタだし、アンタがこいつにも振る舞えってなら」
 手間はたいして変わらない、と返しながら、一旦お隣さんに向けていた視線を弟に戻せば、弟はますます嫌そうに顔をしかめている。
「どうすんの? 一緒に食ってく?」
「ここで作るのは許可してやるけど、食うのは兄貴の部屋で二人でがいい」
「却下」
「なんでだよ。飯代浮かすために飯炊きやってるだけなら、ここで食う必要なんてないだろ」
「アホかよ。飯代浮かすためだけでこんなの続けてるわけないだろ」
「じゃあなんだっつうの?」
 まず第一に、お隣さんの部屋のが圧倒的に居心地がいい。既に部屋の中は空調が効いて暖かいし、コタツもあるし加湿器だって大きめのが稼働してる。まだ兄の部屋の実態を知らない弟にはわかるはずもないが、快適さが段違いだ。
 次に、作ったものを幸せそうに食べてくれること。美味しいとかありがとうとか、たくさん言葉にしてくれること。相手の役に立てている実感も、相手から伝わってくる好意も、既にたくさん貰ってるけど、足りないってわけじゃないんだけど、でも、いくらだって欲しいと思ってしまう。だから貰える機会を自ら逃す気なんかない。
「俺がここでお隣さんと一緒に飯食いたいから」
「は?」
 意味がわからないという顔をされて、そりゃお前にはわからないよな、と思ったら、なんだかもう色々と面倒になってしまった。
「だいたい、お前と一緒に飯食って何が楽しいの?」
「なんだって?」
 聞き捨てならないと言いたげにまた睨まれたけれど、やっぱり気持ちは落ち着いている。
 実家にいた頃、どんな気持ちで家族の分まで食事を用意してたか、どんな気持ちで一人きりな食事をしてたか。ついお隣さんと比べてしまって苦しい思いをしたこともあったけれど、毎日幸せな食卓を囲んでいるうちに、そんな過去はすっかり忘れ去っていた。
 もう、思い出すことなんて殆どなかったのに。今またそれを苦々しく思い出してしまうのは、弟と一緒に食卓を囲む想像をしてしまったせいなんだろう。
 よくまぁ二人で食べたいなんて言えたもんだ。
「この人と一緒に食べるほうが絶対楽しいし、正直言って、お前、おじゃま虫なんだよ。そうだ。飯出来たら運んでやるから、お前、俺の部屋で一人で食えよ」
 ポケットを探って自宅の鍵を取り出し、弟に向かって放ってやる。けれどそれは受け止められることなく、弟の腹あたりに当たってから床に落ちた。

続きました→

 
 
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