相手の後を追って入ったリビングで、いらっしゃいと声をかけてくれたのはキッチンスペースに立つ彼らの母親だ。チラリと部屋の中に視線を走らせ父親の姿がないのを確認した後、再度お邪魔しますと声を掛ける。
「わーん。来るの待ってたよー」
既にテーブルの上に問題集を広げて取り組んでいた親友が、顔を上げて情けなく泣き真似をしてみせた。
一応彼も受験を切り抜け大学進学しているので、弟の切羽詰まり具合に仕方なく、得意科目のみ昔を思い出しつつ勉強をみてやっているらしい。ただ、弟の出来なさ具合に不安になって、これじゃいかんとつい厳しく接しがちになるようで、親友もそれは解っているから、あまり彼を頼ることはしていないはずなのだが。
いい加減親友本人も切羽詰まりきったのか、それとも今日は一緒に受験勉強と聞いた彼がお節介を働いたかのどちらかだろうなと思う。
「お前はこいつに頼りすぎ。少しは自分の頭使って考えろよ」
「兄さんスパルタすぎてやだー。というか兄さんの説明じゃ良くわかんないもん」
「お前が甘ったれ過ぎなの。というかこいつ居なきゃ俺の説明でなんとかするくせに。こいつに甘えんのもいい加減やめなさいね」
「何それ嫉妬? 残念でした。こいつは俺の勉強を見に来てくれてるんですぅー」
「一応一緒に受験勉強、だろ。まぁそのつもりで来てるのも確かだけど、はっきり言い過ぎ。で、突っかかってるのどこ?」
彼らのやり取りを聞きつつ、多分後者だなと判断して親友の隣の席に腰掛けた。
「あ、原因お前の方だったわ。お前が甘やかすから、俺の弟が俺に冷たい」
「なんであなたが厳しくなるのか、こいつ理由知ってるから大丈夫ですよ」
「お前が好きでこいつに教えてやってんならいいんだけどさ。お前自身が受験生だって忘れんなよ?」
「わかってます」
「まぁ人に教えると自分の理解にも繋がるとか言うもんな。じゃ、これ以上は邪魔になりそうだから俺は引っ込んどくわ」
彼は自分と隣りに座る親友との頭にそれぞれ手のひらを乗せると、頑張れよとわしゃわしゃと髪を掻き撫でてからキッチンスペースへ入っていく。その背をなんとなく見送っていたら、袖をツンツンと引かれて隣の親友へ意識を戻した。顔を寄せてくるので、内緒話かとこちらも耳を寄せる。
「ね、もしかして玄関でキスされた?」
言葉に詰まれば、まぁ聞くまでもなかったよねと小さな笑いが耳の横で弾けた。
「俺に難題押し付けて自分が迎えに出れるようにしてたから、絶対狙ってると思ってた」
「ああ……そう」
「お前さ、嫌なことは早めに言った方が良いよ?」
更にひそりと声を潜めて続いた言葉に、親友にはやはりバレてしまうのだなと思う。
「嬉しくないわけじゃないんだけど、ね」
「うん。だから尚更、教えてあげて。きっとお前が喜んでくれてるって思ってるから。今日の何かがダメだったとは多分まだ気付いてない。てか何されたの?」
「お前らイチャイチャしすぎだろ。勉強しろ勉強」
ハッとして親友から体を離し声の方向へ顔を向ければ、キッチンからお盆を手に彼が戻ってくるところだった。
「ひそひそと俺の悪口言ってたんだったら許さない」
「大好きな兄さんの悪口なんて、俺が言うと思う?」
兄さん大好きって話をしてただけと笑った親友の顔はとてもあざとい。しかし彼はニコリと笑って、よし許したと言った。とんだ茶番だ。
「じゃ、そんな可愛いお前たちに、お茶と茶菓子の差し入れな」
テーブルの上に置かれたお盆には、三つのマグカップと皿に盛られたクッキーが乗っている。彼は自分の分のマグカップを手に取ると、それ以上は何も言わずにソファへ向かって行った。
親友が言うには、普段は自室で過ごすことのが多いらしいのに、自分が訪れている時にはリビングのソファが彼の定位置だ。数年ぶりに訪れたあの日は、明らかに監視されている感じだったけれど、今はきっと、せめて同じ空間で同じ時間を過ごそうとしてくれている。
勉強するこちらを気遣い静かに過ごしながら、時折こちらを見つめてくる瞳は優しい。その優しい視線が、彼の大事な弟だけではなく、今は自分にも向かっているのだと思うと、どうしようもなく嬉しくて、でも少しばかり居心地が悪い。そわそわドキドキ心臓が跳ねて、それを隣りに座る親友だけが、訳知り顔でニヤニヤ見てくるからだ。更に言うなら、そんな自分たちが彼の目にはイチャイチャしてると映るらしいのも、少しだけ納得がいかない。
考えるだけでそわそわしだしてしまう気持ちを落ち着かすように、気持ちを切り替えるように。
「じゃあ、いい加減始めようか」
もう一度、どこに突っかかってるのと聞きながら、親友の手元の問題集に視線を落とした。
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