7月の半ば、弟は家を出て一人暮らしを始めた。といっても、一緒に暮らすなんて嫌だとか、同棲とか何言ってんだと、弟の提案を拒否ったわけではなく、もっと手順を踏めってだけの話だ。
家事を負担してでも二人で暮らしたい、もっと言うなら家の中でエロいことがしたい弟の訴えは理解したし、そのために初期費用を貯め自炊スキルを磨いた努力は認める。ただ、兄弟で恋人、という事実を可能な限り親に隠しておきたいって部分が、弟の頭の中からはすっぽ抜けていた。
つまり、二人同時に家を出て、しかも二人で同じ部屋を借りて住む、という理由が親に説明できない。だから時間差でどちらかが先に家を出るべきだと、あの日、一緒に住みたいと相談しに来た弟には話した。
金銭面と必要性という意味では、多分、自分が先に家を出るのがいいんだろう。頻繁に激務でボロボロになる自分が家を出るなら、少しでも会社に近いところに住みたい、辺りで親は多分すんなり納得するとは思う。
でも家事スキルをめちゃくちゃ心配されると思うし、事実、自分でも一人暮らしなんて無理だと思うし、先に自分が家を出て弟を後から引き込む作戦は考えるだけ無駄だ。
それよりも、一緒に住むのを断られてもとりあえず家は出て、一人暮らしの部屋に連れ込めば「俺のベッドで抱きたい」は可能、などと考えて準備していた弟が、先に家を出るのが妥当だと判断したに過ぎない。
とにかく家を出て一人暮らしがしたい。そのためにバイトもした。という自立心を前面に出せば、親も不思議には思わないだろう。
考えたのは、激務の時に泊まらせて貰ううちに、やっぱりもっと会社に近い場所に住みたくなったが、自分の家事スキルに自信がない。弟が家事を負担する分こちらが多めに金銭負担すれば、弟にとっても有り難いだろうし弟もいいって言ってる。という流れで、つまりは、後から自分が合流する算段になっている。
なので、弟が新しく住む場所にはけっこう口出しした。だけでなく、実はすでに金銭的にも少しばかり援助している。まだ住んでもいない家だけど。でも今後お世話になる気満々で。
その時に、弟が選ぶデート先が小さな駅の特別有名ってわけでもない店になった理由も知った。つまりは、今後住みたい地域の選定だ。町や店に対するこちらの反応も、それなりに見られていたらしい。
家を出て二人暮らしをする理由、にまでは考えが及ばなかったようだけれど、弟にしては随分早くから周到に準備していたと思う。
ほんのりと怖いのが、弟に入れ知恵している存在が居る可能性なんだけど、さすがに怖くて聞けていない。弟に、実は兄貴が恋人、を知ってる友人やらが居ないことを願うばかりだ。
そして弟が家を出た一月後、世間ではお盆休みと言われる時期に、初めて新居にお邪魔する予定になっている。しかも、今年のお盆休みは全日弟の新居に居続け予定だ。
ラブホにお泊りは何度か経験があるが、それ以外で弟と泊まりで過ごしたことはない。つまりは初めて、恋人という関係のまま長時間一緒に過ごすことになる。それを考えるたび、少しの不安と、期待と興奮とで、なんだかソワソワしてしまう。
一人旅の趣味なんてないので、今年のお盆は泊まりで出かけるから食事の用意は要らないと母に話した際には、かなり珍しがられたけど。そこは曖昧に濁して、大きなカバンに着替えやらを突っ込み家を出たのはお盆休み初日の昼前だった。
待ち合わせた弟新居の最寄り駅近くで昼食をとった後、案内されるまま弟に付いて新居へ向かう。色々口出しはしたが、さすがに一緒に内見まではしていないので、全く初めての道のりを、なるべく覚えられるように目印になりそうなものを探しつつ歩くこと20分弱。ようやく弟が住むマンションにたどり着いた。
駅からの距離が遠いほど家賃が安くなるのは当然で、弟的には30分くらいまでは有りと思っていたようだが、いずれ合流する身としてはさすがに30分はキツイ。それと、壁が薄そうなアパートは論外。というこちらの意見を考慮した、立地と建物というわけだ。
「あ、鍵、俺の使っていい?」
玄関ドア前に立ちポケットを探る弟に声を掛ければ、振り返った弟が嬉しそうにニヤけるのがわかった。
「もちろん。てか、ぜひ」
ポケットから手を抜いて、ドア前を譲るように横にズレた弟に代わってドア前に立つ。
思いつきの発言だったので、自分のキーケースを出すのに少し手間取ってしまった以外は、なんの問題もなく自分の鍵でこの部屋のドアが開いた。
キーケースの中にぶら下がっているのは、弟が家を出る直前に、兄貴の分ねと言って渡してきたスペアキーだ。
「ん、ふふ」
こみ上げる笑いとともに玄関に入って、ただいまと告げながら靴を脱げば、鍵が閉まる音とほぼ同時に伸びてきた腕に、背後から抱きしめられてしまった。
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