あの日の自分にもう一度4

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 後はそれだけだと言うなら、もう目は閉じなくてもいいだろうか。そう思ったのに、頬の赤味を残した龍則の真剣な顔が近づいてくるのに耐えられなくて、結局瞼を落としてしまう。直視できないと思ってしまった事実に、また少し、心臓が鼓動を早くしたようだった。
「もちょっと口解けよ。力みすぎ」
 お前のせいだろと言ってやりたいが、唇に押し当てられた口紅のせいで言葉が出せない。喋ったら、唇以外の場所に口紅が付いてしまいそうで怖い。結果、指摘された口だけは軽く開き気味にしたものの、そこ以外は緊張でガチガチになった。どう考えても意識しすぎだ。
「はい、終わり」
 龍則の気配が顔の前からしっかり遠ざかってから、ようやっと目を開ける。ついさっきまで頬を赤くしていた龍則は、今はもう平常通りで、しかも随分と満足げだ。これは期待できると、今度こそ鏡の前に移動しようと立ち上がる。
 しかし、姿見付きのハンガーラックへ向かって踏み出したところで、よろけてしまった。きっとずっと正座していたせいだ。しびれが酷いってことはなかったから、油断していた。
 でもちょっとよろけただけで、転びそうだったってわけではないんだけど。なのに。
「おいっ!」
「ぎゃっ、うわっ」
 咄嗟に伸ばされたのだろう龍則の腕に驚いてしまって、悲鳴とともにその腕から逃れようとしたのがいけない。ますますバランスを崩したせいで、今度こそ転びそうになった。というか尻もちをつきそうになった。
 でもそうならなかったのは、それより早く、龍則がしっかりと抱きとめてくれたからだ。つまり、結局その腕に捕まってしまった。
「あっぶねぇ。大丈夫か?」
 やっぱ足しびれてんじゃねぇかと心配げに掛けられた声に、やっぱり、お前のせいだとは言えない。
「あ、りが、と。も、だいじょぶ、だから」
 さっきまで以上にドキドキしているのは、転びかけて焦ったせいなのか、龍則に抱きとめられているからなのか。どうにか口に出したお礼も、とぎれとぎれでぎこちないものになってしまった。
「気をつけろよ、マジで」
「ん、わかってる、から」
 多分に呆れを含んではいるが、本気で心配されているのもわかるから、妙に意識してしまっていることが申し訳ない。早く意識を別のものに向けないとと思いながら、緩んだ腕の中から抜け出してハンガーラックへと急いだ。
「お、おお〜」
 鏡の中には、携帯の中に残るあの女の子が映っている。楽しげに笑ったあの子も可愛かったが、真顔で見つめあう眼の前の女の子もしみじみと可愛い。
 前回よりも可愛くしてやるの言葉は、どうやら事実だったみたいだ。前回よりも全体的に薄い色づきではあるが、それが今の格好に合っている。前よりも落ち着いた雰囲気になってかなりいい。
 もっと言うなら、ますます好みに近くなった。まぁ、どれだけ好みに近づいたところで、この子と付き合えるわけではないけれど。
「どーよ」
「すっげいい」
「だろ」
 背後から掛かる声は自慢げだ。鏡に映り込んだ龍則はその声に違わずドヤ顔をしているようだけど、でもそれはあまり視界に入っていなかった。鏡の中の女の子にずっと目が釘付けなので。
「なぁちょっとこっち向けよ。写真撮りたい」
「あー……写真は……」
「ダメなの?」
「だって前回の写真、結構あちこち回ったろ。ってことは、これも俺だって、わかるヤツはわかるってことだろ。素面で女装してる写真なんて残すの怖いって」
 せっかくこんなに可愛く仕上がっているのだから、紘汰自身、写真を撮りたい気持ちはある。でもそんな証拠を残すのはあまりにリスクが高くて躊躇ってしまう。

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あの日の自分にもう一度3

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「いやだって、どうしていいかわかんなくて。この格好であぐらは無しだろ。で、アヒル座りできないし、横座りより正座のが長時間体をまっすぐ保てそうで」
「まぁそれは……けど、足痺れんだろ?」
「出来ればそうなる前に終わって欲しい」
「んじゃキツくなったら声かけろよ」
「あ、じゃあ、そーする」
 途中休憩可の提案にありがたいと思いながら頷けば、化粧品類を纏めて突っ込んだ籠を手に、正面に腰を下ろしてくる。
 龍則は胡座なのに視線があまり変わらないのは身長差があるからか。なんてことをぼんやりと思いながら相手の手元を見つめていれば、迷いなく取り出したものの中身をスポンジの上に乗せていく。
「そういや、なんでそんな慣れてんの?」
「んー、慣れてはない。この前紘汰にやったのが初めてだし」
「え? とてもそうは見えないんだけど」
「姉貴居るからだろ。実家いた頃に過程というか工程見る機会は結構あったし、そのせいじゃね?」
「へぇ」
「ほら、塗るから目ぇ閉じて」
 龍則の手に摘まれたスポンジが眼前に迫って、慌てて目蓋を下ろせば、すぐに頬の上にぺとりとした感触が押し付けられる。二度目ではあるが、なんせあの日はしこたま飲んでいた酔っ払いだったので、正直、化粧をされていた時間の記憶はあまりない。
 黙ってジッと待つだけだと暇を持て余して、ついつい相手の気配を追ってしまう。そして、顔を弄られていない時は、薄らと目を開けて相手の様子を探ってしまう。
 男友達の顔に化粧を施す、なんていう、どちらかというとお笑い要素が強い真似をしているはずなのに、たまに盗み見る龍則は真剣そのものの顔をしている。目を閉じている間、つまりは顔を弄られている時、その真剣な目は、間違いなくジッと自分を見つめている。
 それに気付いてしまったら、なんだか急に恥ずかしい。気持ちがソワソワして、でも体も顔も動かしちゃいけないと思うと、ますます気が逸ってしまう。
 冷やかす外野が居ないせいで、やたら静かなのもいけない。体の中でドキドキと脈打つ音がする。それが相手にも聞こえてしまうんじゃないかと不安になる。
「どした?」
 声を掛けられると思っていなくて、ビクッと大きく肩を揺らしてしまった。やはりこの心音が聞こえてしまったかと焦ったが、どうやら龍則は足が痺れてきたと思ったらしい。
「足、疲れたなら休憩するか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ、ない」
「ふーん……?」
「な、なんだよ」
 けっこうな至近距離でジロジロと様子を探られてますます焦る。そんな中、龍則の真剣だった顔がふにゃりと緩んでいったかと思うと、パッと口元を押さえて顔を横に背けてしまう。
 その横顔から、龍則に何が起きているのかを、こちらも察した。耳と頬とが赤くなっているからだ。
 お前まで照れるなよと出掛けた言葉をグッと飲み込む。そんな事を言って、自ら羞恥していた事実を告げる必要はない。まぁ、こっちの羞恥に気付かれたからこその、反応なんだとは思うけれど。
 しかし咄嗟の言葉を飲んでしまった結果、照れて顔を背けている龍則相手に、どうすれば良いのかわからなくなった。掛ける言葉が見つからない。
 ただ、真剣に見つめてくる龍則の視線から逃れられたおかげで、だんだんと気持ちが落ち着いては来ていた。化粧してくれる手も止まっているので、今度は逆に、紘汰の方からジッと相手を見つめてしまう。
「そんな目で見んなって」
 その視線に気づいたようで、龍則がさらに顔を背けながらそんな事を言う。
「そんな目ってなんだよ」
「ぼーっとして、なんか俺に、見惚れてる、みたいな……って、あーくそっ、今のナシ。これは紘汰。男友達の春野紘汰」
 後半はブツブツと、まるで自分自身に言い聞かせてでも居るようなその言葉にピンときた。
「あ、お前、もしかして俺にトキメイた?」
「うっせ。てかどう考えても、俺のメイクが上手いせいだから。それだけだから」
「へぇ。てことは、もう結構ちゃんと女の子になってんの?」
 鏡が見たいと立ち上がりかけたら、そっぽを向いていた龍則が慌てたように振り向いて、それだけではなく肩を押さえて立ち上がるのを阻止してくる。
「なんだよ。鏡見ちゃダメなの?」
「いやもう後ちょっとだから。どうせなら完成してから見ろって」
「手ぇ止めたの龍則じゃん」
 その指摘に一瞬ウッと言葉に詰まったものの、龍則はすぐ終わらせるからと言って口紅を手にとった。

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あの日の自分にもう一度2

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 あれは酔った勢いのお遊びだ。皆でギャイギャイ騒ぎながらやるから許されるのであって、ドン引きされた上で仲間内に言いふらされたら、自分の今後の立場がどうなるかはわからない。
 でも化粧は多分重要だ。でもって絶対、紘汰よりも龍則の方が腕がいい。
「行く。参加する」
 勢いよく参加表明した相手に、思わずフフッと笑ってしまう。
「龍則は優しいなぁ」
「いやだって、何か危険があるかも知れないとこに、紘汰だけ参加させて知らんぷりはないだろ」
「まぁ、龍則が心配するような危険ではないんだけどな」
 肝心な部分をのらりくらりと躱しながら、紘汰は龍則を自宅へと誘導する。自宅も飲み会会場になったことが有るので、途中で気づいたようではあるが、それを確認されることはなかった。
「はい、上がって」
「おじゃましま……って、なぁ、ほんとに飲み会? 何時から? まだ誰も来てないの?」
 玄関先に靴が溢れていないのと、静かすぎる室内に、追加買い出しだと思っていただろう龍則がまたしても不審げな声を出す。
「あー、うん、飲み会、ではない」
「は?」
「一人飲みのつもりだった」
「この量を?」
「まぁ全部飲むかはともかくとして、理性ぶっちぎれるほど酔いたくてさ」
「何があったんだよ。え、俺は紘汰の見張り役かなんかで呼ばれたの?」
 救急車呼ぶのとかやだよと言うので、さすがにそこまで酔う気はないよと否定する。
「龍則に頼みたいのはさぁ……」
 買ってきた荷物を取り敢えずこたつテーブルの上において、こっちこっちと龍則をロフトスペースに招き入れた。そこは一応寝室という扱いの場所で、ベッドの上には洋服や化粧品類が乱雑に広げられたままだ。
「これって」
「そう。あの日のやつ」
「え、で、これが何?」
「化粧、して欲しいんだよ。龍則に。この前みたいに」
「それは、まぁ別にいいけど」
「あ、いいんだ」
 引かれるかと思ったと言って安堵の息を吐けば、いやだって俺もかなり楽しんだしと返されて、ますます安心した。
「え、で、つまり、もっかい理性ぶっちぎれるほど酔って女装するって言ってんの?」
「そう」
「なんで?」
「なんで、って、いやだから、俺も楽しかったから……」
「じゃなくて、酔う必要ってあんの? むしろ酒なんか飲まないほうが出来上がりのレベル、絶対上がるだろ?」
「酔ってもないのに女装とかハードル高ぇよ」
「えー、あんだけ証拠写真残して、今更だって」
 あの写真見たらもっかいやりたい気持ちもわかるだとか、ちゃんと可愛くなれんのわかってんだからハードルなんてないだろだとかを言い募られて、女装すんなら飲む前にやろうぜと誘われる。ひとつひとつの言葉に、気持ちがぐらりぐらりと揺れているのは、どうやら龍則もお見通しだ。
「前回よりも絶対に可愛くしてやるから」
 そして結局、力強く告げられたその言葉が決め手となって、促されるまま服を着替えてしまった。
「んじゃ始めるか。取り敢えず座って」
「あー……」
 ロフトスペースは天井も低いし椅子などは持ち込んでいない。そうするとベッドに腰掛けるか、ラグに腰を下ろすかだが、ベッドも高さの低いフレームを使っているから、中途半端に腰を曲げて化粧をしてもらう事になりそうだ。しかしさすがにスカートを履いた状態で胡座をかくのはどうだろう。
 女の子の座り方で真っ先に思い浮かぶのはぺたん座りだのアヒル座りだのと言われる、両足の間にお尻を落とす座り方だけれど、あれは股関節やらが痛くて無理だったのが過去の経験からわかっている。でも横座りだと体をまっすぐに保つのが大変そうだ。
「え、正座?」
 結果選んだのは正座だったのだが、その選択に、少なからず驚かれてしまったようだ。

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あの日の自分にもう一度1

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 手の中の携帯画面には、めちゃくちゃ笑顔の可愛い女の子が決めポーズを取る画像が表示されていて、ベッドの上にはその娘の着ている服一式とウィッグと化粧品類が、多少乱雑に並べられている。それらを何度も交互に見比べて、ウーンと唸った後、紘汰は大きなため息を一つ吐き出した。
 だってあの日はしこたま酔っていた。同じ学部学科の気の合う男友達ばかり10人ほど集まって、せっかくの飲み放題だからとガンガン飲みまくって、気分良く盛り上がった結果、悪乗りしすぎたのだというのはわかっている。
 言い出しっぺは誰だったか。どうせ吉田とか山上とか、口が上手くて調子がいい、普段から何かと中心になって騒ぐあの辺だろう。
 お前は絶対イケるとおだてられるまま、某ディスカウントストアのコスプレコーナーになだれ込み、その場で店員巻き込んで一式着替えて化粧までして写真を撮りまくった。新たな自分が誕生した瞬間だった。
 ノリノリで女装したのは自分を含めて数人いたのだが、着用した服や化粧品類は全員で割り勘だったから、そこまで懐が傷んだわけじゃない。しかも自分が着た服と、なぜか使った化粧品全てが譲られたので、むしろ出した金以上のものを得てしまった。
 ただやはり、しこたま酔った状態で、化粧を落として再度着替えるのが面倒だったのはわからなくもないが、ノリと勢いでその格好のまま帰宅したのはどうかと思うし、化粧品類をウキウキで持ち帰ったのもどうかと思う。
 これらが今ここになければ、こんなに悩むことはなかったのに。
 だって携帯の中の女の子は本当に楽しげで、可愛くて、実のところかなり好みのタイプだったりするのだ。好みの女性をイメージしつつ選んだ服だからというのも大きいが、運が良いのか悪いのか、どうやらその服を違和感なく着こなしてしまえる顔と体を持っていた。
 あの日の衝撃と、興奮と、妙な快感が忘れられない。
 詰まるところ、 紘汰の悩みとは、この服にもう一度着替えて化粧をするかどうかだ。
 ただ、酔ってもいないのに自ら女装に手を出してしまったら、取り返しがつかない事態になりそうで怖くもある。自らの手で、自らを好みの女性に変えてしまえるのを知ったら、どうなってしまうんだろう。
 好みの女の子とお付き合いが出来ないので、好みの女の子を作り出しました。なんて、笑い話にもならないドン引き案件という自覚もある。しかも、どんなに理想的な女の子を作り出そうと、相手が自分じゃどのみちデートも出来ない。
「きっも」
 自分自身の思考に思わずそう吐き出すものの、視線はやっぱりベッドの上で、並べた服をどこかに仕舞い込むなり処分するなりしようという気持ちは湧いてこない。
 それくらい、再度女装にチャレンジする、というのは魅力的な誘惑だった。
「あ、飲めばいいのか」
 名案とばかりにぽんと手をうち、紘汰は財布片手にコンビニへと向かう。
 そうだ。素面でスカートを履くにはあまりにハードルが高いが、あの日のように酔ってしまえば、そのハードルはグッと下がる。
「こうた!」
 最寄りのコンビニ店内で、ウキウキと買い物かごにアルコール飲料や軽いツマミ類を次々と放り込んでいたら、ふいに名を呼ばれて振り返る。
「よっ、奇遇」
「たつのり」
 片手を上げてみせたのは今田龍則で、あの日一緒に飲んでいたメンバーの一人だ。こいつは女装はしなかったが、嬉々として人の顔に化粧品を塗りたくってくれた。
 実家を出て一人暮らしをしている奴らの中でも比較的アパートの距離が近いせいか、コンビニに限らず、龍則との遭遇率はそこそこ高い。
「なに? 飲み会でもやってんの?」
 カゴの中の酒の量を見て、一人で消化するための買い物とは思わず、飲み会途中の追加買い出しとでも思ったんだろう。
「どうした?」
 相手を見つめたまま口を開かない紘汰に、龍則が訝しがる。
「あー……その、今日、暇?」
「なに? 俺も参加していいやつ?」
 行く行くとさっそく乗り気な相手に、紘汰は曖昧に頷いてレジへと向かった。
「幾ら出せばいい?」
「いや、龍則は出さなくていいよ」
「いやさすがにそれはダメだろ」
「いいって。てかさ、龍則に頼みたいこと、あんだよね」
「え? 何を?」
「それは帰ってから」
「え、なにそれ怖いんだけど」
 どんな飲み会なのかと聞かれても、この場で正直に話すのは絶対に無理だ。
「じゃ止めとく? この酒飲むなら、途中では帰さないけど」
「ますます怪しいな。危険はないんだろうな?」
「龍則にはないな」
「は? じゃあ紘汰には?」
「どうかなぁ……」
 他人を巻き込もうとしている時点で、危険はなくはないだろう。あの日の事が忘れられなくて、一人で女装しようとしていたと、龍則に知られることになるのだから。

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