ズルイ ズルイ ズルイ。
昔と違って、今では随分と体格差がついているのだから、このまま力尽くで身体を繋ぐことも不可能ではないだろう。けれどそれでは絶対に、雅善の心は手に入らないのだ。
こんな状態に陥っても、慌てて醜態を晒すような男じゃないから。相手を宥めるための言葉を選べる大人だから。
声を震わせはしたけれど、怯えているわけではないだろう。結局、雅善に敵いはしないのだ。
悔しさに美里は唇を噛み締める。雅善の手首を縛めるネクタイの結び目を解いた美里は、何も言わずに背中を向けた。
「ビリー……」
小さな呼びかけの声は無視して、そのまま化学準備室を出て後ろ手にドアを閉める。
張り詰めていた糸が切れたようにその場に座りこんでしまいたい衝動を押さえて、大きく息を吐き出した。
「ホント、ズルイ……」
小さな呟きを一つ残して、美里はその場を後にした。
楽しみだったはずの化学の授業が、今日は憂鬱でしかたがない。
美里は黒板の前に立つ雅善を見ることが出来ず、その言葉も耳を素通りしていく。
「……ウクン、河東君!」
隣に座っていた女生徒に名前を呼ばれ、ハッとしたように美里はそちらを振り向いた。
「ビーカー、沸騰してるよ?」
目の前の三脚の上では、確かにビーカーの中の湯がボコボコと煮立っている。明らかに加熱しすぎだった。
「あっ!」
慌てて手を伸ばすのと、隣の女子が小さく叫んだのはほぼ同時だっただろう。
「熱っ!!」
次の瞬間には、実験台の上にビーカーが落ちる音と美里の上げた声が重なった。
割れはしなかったが、倒れたビーカーから溢れた湯が机の上に広がって行く。
辛うじて隣の女子は自分のノート類を脇へ除けたが、美里のノートと教科書は、大分湯を吸ってしまったようだった。
「なにやっとんのや、このアホが!」
たまたま見ていたのか、それともやはり、今日の美里の様子の可笑しさに気付いて気にしていたのか、すぐさま黒板前から怒声が飛んでくる。
「ボーっとしとらんで早よ手ぇ水に晒せ。入っとったのはまだただのお湯やな?」
美里は辛うじて頷いた。雅善は隣の女子に机の上を雑巾で拭くように指示を出しながら近づいてくる。
「ボーっとつっ立っとるヤツが居るか。ほら、早よ冷やして」
既に教室中の視線を集める中、雅善は美里の腕を掴んで、実験台の隣に設置された水道の蛇口を捻った。
流れる水の中に美里の右手を突っ込み、雅善はようやく一つ大きな息を吐き出す。そうしてから、二人へ視線を注いでいる他の生徒へ向けて注意を呼びかける。
「余所見しとらんで、自分の分の実験しっかりせぇよ。河東みたいに火に掛けたビーカー、素手で掴むアホは他におらんと思うけども、触れたりせんよう気ぃつけや」
美里はそれら全てをどこか他人事のように感じながら、呆然とした表情で流れる水に視線を向けていた。
「河東君、大丈夫?」
机の上を拭き終えたらしい隣の女子が、ついでとばかりに、濡れてしまった美里のノートや教科書の水分を拭き取ってくれながら、心配そうに声を掛けてきた。
「ん、ああ……」
鈍い返事を返す美里に、取りあえず保健室に行って来いと告げたのは雅善だった。
「別に、たいしたことない」
「ガッツリ掴んどいて、たいしたことないわけないやろ。というより、もう暫く冷やさなあかん。けど、ここでやられたら迷惑やんか」
保健室でもう一度じっくり冷やした後、保険医に一応診てもらった方がいいと言いながら、雅善はポケットから取り出したハンカチを濡らして美里に握らせる。そして、実験室を出て行けと言うように、ポンと背中を押し出した。
仕方なく、美里はその指示に従い実験室を出て行く。
このまま屋上にでも行ってしまおうか。なんてことを一瞬考えた。
けれどやはり右手がヒリヒリと痛んでいたので、美里は小さな溜息を吐き出し、隣接する保健室のドアを叩く。
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