追いかけて追いかけて8

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 ゴチンという鈍い響きと、痛みを訴える相手の声が上がる。よほど当たりどころが良かったのか、吹っ飛びはしなかったものの相手の体が大きくのけぞって、脇の壁に強かに頭を打ち付けたようだった。股間の手も離されて、相手は片手を腹に、片手を後頭部に押し当てながら未だに呻いている。俯いているのでどんな顔をしているかわからないけれど、知りたくもなかった。
 今しかないと慌てて立ち上がる。すぐそばに脱がされて放られていたスウェットのズボンが見えたので、さすがに下半身丸出しで外に飛び出すわけにはと急いで足を通して、後は充電スタンドに置かれた携帯だけ握って部屋の出入り口に向かう。
「おい。待てよ」
 逃げんのかという声に、逃げるに決まってるだろと思いながらも、言葉は返さず早足で部屋を出た。手元の携帯を弄ってルームメイトの友人に電話を掛けてみるものの、繋がる気配はない。それどころか、背後で男の立ち上がる気配がする。相手もそのまま逃してくれる気なんてないようだ。
 ヤバイなと早足を駆け足に変えて、玄関扉に飛びついた。靴を引っ掛けながら鍵を開け、後はドアを押し開いて飛び出すだけ。というところで大きな音が立って、強い衝撃と痛みが全身を襲った。すぐには何が起きたのかわからなかったが、目の前には閉ざされたままの扉があって、逃げ切れなかったことを理解し絶望的な気分に襲われる。
「逃がすかよ」
 低く怒りを孕んだ声。背中に掛かる相手の圧と掴まれた右腕に食い込む相手の指先。玄関扉に思いっきりぶち当ててしまった、肩と額もジンジンと痛んで呻くことしか出来ない。
「ううっ……」
「もしかして、優しくされるより、こーゆー方が燃えるタチっすか」
 そんなわけあるかと叫びたいのに、扉に押し付ける力が増していて声を上げるどころじゃなかった。アチコチ痛い上に息苦しい。
「ま、俺はこーゆーのも、嫌いじゃないんでいいっすけど」
「ひっ」
 ゆるいゴムのウエストを抜けて、相手の手がまた股間を握ってきたせいで、小さく悲鳴が漏れた。急いでいたから下着は履いていない。直に感じる他人の手を、今度はもう簡単に振り払えない。ゾワゾワと這うような嫌悪で肌が粟立った。気持ちよさなんて、ない。
 グニグニと揉まれて反応なんてしなかった。乾いて柔らかなそこを強引に剥かれて扱かれるのなんて、痛みと不快感しか与えないとわからないのか。
 うわ言のように止めろ嫌だと零していたら、舌打ちが聞こえて弄られていたペニスが解放される。反応の無さに飽きたのかもしれない。しかし、ホッと安堵の息をついたのも束の間、ズルリとズボンを下ろされて息を呑んだ。
「少しは感じてないとキツイかなと思ったんすけど、無理っぽいんでもういいっす。痛くても、先輩のせいっすからね」
「は? ちょ、ひぇっ」
 尻肉を割られて指先がアナルに触れる。またしても情けなく悲鳴があがってしまったが、当然相手はお構いなしだ。強引に侵入しようとする乾いた指に、皮膚が引攣れて痛い。
「痛っ、やっ、やめっ」
「大人しく部屋戻るなら、ローションありますけど?」
「ぜってぇ、いや、だっ」
 相手に屈して自分から相手を受け入れる事に比べたら、このまま乱暴にされる方がずっとマシだった。ただ、最悪の選択を重ねている自覚もある。
 今ならまだ、謝って、お願いだから優しくして欲しいと頼んで、大人しく相手に従い受け入れる様子を見せれば、多分きっとそこまで酷い扱いはされない。今のところ相手には、こちらを感じさせたり慣らしたりという手順を踏む素振りがある。
 でも、なんでこんな男に、という気持ちを押さえつけて、相手に好き勝手させるのは無理だってこともわかっている。自分の身を守るために、こんな相手に何かを請うことはしたくない。そこまで大きな体格差があるわけでもないのに、同じ男でありながら、この状況から抜け出せないことが悔しかった。
「じゃ、仕方ないすね」
「ひぅっ、やぁ、いたっ」
 グリグリと指をねじ込まれて、痛みで視界が霞む。その痛みに悔しいという想いが重なって、あふれた涙が頬を伝った。
 こんな男に。こんな男に。こんな男に。嫌だ悔しい腹立たしい情けない。逃げられない痛みの中で、脳裏にあの人の優しい笑顔が浮かび上がって、余計に涙を誘った。

続きました→

 
 
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追いかけて追いかけて6

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 自分たちはきっともう会うのを止めた方がいい。今更、彼を好きだと思う気持ちを隠すことなんてきっと出来ないし、会えば好きだ好きだと気持ちが育っていくのだってきっと止められない。
 こちらのダダ漏れな好意で、彼に迷惑なんてかけたくなかった。なのに彼は自分が悪いと言って譲らないし、もう困らせないからまた食事に付き合ってと言われれば、自分から強く拒絶することなんてとても出来ない。
 結局、頻度は少し落としたものの、彼とは変わらず会い続けていた。元々場を取り持つのが上手い気遣いの人だと知っているから、気遣われているのは感じてしまうし気まずさだってゼロじゃないけれど、彼と過ごす時間はどうしたって楽しくて心地いい。
 それでも時折、もう会わない方がいい、これ以上関わらない方がいい、甘えてないで拒絶するべきだという気持ちが湧いて、もう会えません会いませんと何度も連絡を入れかけた。脳内に、メッセージを送った後、彼の返事を待たずにブロックしてしまえと唆す自分がいる。
 なぜなら、唇を触れ合わせただけの優しいキスを、何度となく思い返していたからだ。告白を受け入れて彼と付き合ったら、あのキスの先もあったんだろうなと考えてしまう。優しく笑いながら触れてくれる手を、唇を、想像してしまう。熱を吐き出した後の賢者タイムに、ひたすら落ち込んで泣きたくなるくせに、その想像を止められなかった。
 気持ちが不安定に揺れる。特に彼と会う日が決まった後は、本当に会いに行くのかと直前までかなり悩む。悩んだって、結局は彼に会いに行ってしまうし、彼との時間を楽しんでしまうんだけれど。
 そうなるってわかってても、迷う気持ちはどうしようもなかった。そしてそんな自分の迷いや揺れる気持ちが、どれくらい周りに漏れているかなんて気にしたことがなかった。

 それは夜間実験を終えて、友人と共同で借りた部屋で仮眠を貪っていた時だ。自分の身に何が起きているのかなんて、最初はさっぱりわからなかった。
「ああ、やっと起きました?」
 ルームメイトの友人の声じゃない。上から覗き込む相手の顔をぼんやり見返しながら、誰だっけと思う。全く知らない顔じゃない。
 確か、友人のとこのゼミの4年生だ。てことは、友人も一緒なんだろうけれど、部屋に友人の気配はない。大学からの近さと安さ重視で契約した狭いアパートなので、トイレという可能性はあるものの、そこでようやく何かがオカシイと感じた。
 そもそも、友人はこちらが夜通し実験していたのを知っているし、今から寝るという連絡も入れてある。仮に部屋に何かを取りに来たのだとしても、こちらを起こさぬよう静かに用事を済ますはずだ。お互いその程度の気遣いは当たり前にするから、特に揉めること無く部屋を共同で使っていられるとも言える。
「ゴメン、名前、なんだっけ。あと、なんでここ居るの?」
 体は酷く重くて怠かったけれど、殆ど知らない後輩に上から見下されている状態を受け入れることも出来ず、聞きながら体を起こそうとした。けれど浮かしかけた体は、肩を押されてあっさり布団の上に戻ってしまう。
「ちょっ、」
 名前を告げる相手の口元は笑っているのに、目は全く笑っていない。ゾッとするような気配に、冷や汗が吹き出そうだった。
「先輩とちょっとお話したくて、鍵、借りたんすよ」
 友人がそうホイホイ他人に鍵を貸すはずがない。貸したとして、その連絡と説明がないなんてありえない。絶対嘘だと思ったものの、でも事実、相手はこの部屋に入り込んでいる。
 鍵を盗んだか、ピッキング行為でむりやり鍵をこじ開けたか。どちらにしろ、ヤバイ相手には違いない。
「疲れてるから今はゆっくり寝たいんだけど。話があるなら、後で研究室で聞くから」
 努めて冷静に発したつもりの声は、少し震えてしまった。相手を恐れているとバレるのは避けたかったのに隠せなかった。
「それだと、わざわざここ来た意味、ないじゃないすか」
 口調は落ち着いているが、それは優位を確信しているからなんだろう。

続きました→

 
 
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追いかけて追いかけて5

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 ルームシェアの話を聞く前に、気持ちの余裕を持って話したかったと言った彼は、先に一つ確かめさせてと言葉を続ける。
「ルームシェアの相手と何か特別な関係があるわけじゃないよね?」
「特別な、関係?」
「恋人だったり、恋人予定だったり」
「ただの友人です、よ」
 あ、これ以上は聞いたらダメなやつ。頭では瞬時にそう悟ったのに、彼の口から溢れる言葉を止めることは出来なかった。
「君が好きだよ。だから俺の、恋人になって」
「ダメっ……です」
 聞いたらダメって思った気持ちが遅れて口から漏れて、その後慌てて「です」を足した。もう聞いてしまったけれど、恋人になりますと頷けるわけじゃないから、まぁこの返答でもいいかと思う。もうちょっとマシな断り方があるだろとも、一応頭の片隅で思ったけれど。
「どうしてダメ?」
「それは、……男同士、なので」
 なるべくゆっくりと言葉を吐いていく。少しでも多く、思考を回す時間が欲しい。
「男も恋愛対象になるよって、言ったことあったと思うけど」
「性別の拘りはない、って話、ですよね。だったら恋愛は、女の子として下さい、よ」
 最初の焦りが少し落ち着いて、しっかり考えて答えないとマズいという思考にはなったけれど、思いの外アルコールが回っているらしいことも自覚できていた。飲み込まれて頷いてしまわないように、必死で吐き出す言葉を考える。なのに。
「目の前に、ずっと自分を好きだって思い続けてくれてる、とても可愛い子がいるのに?」
 真剣な目と熱を持った声は、知っているよと言いたげだった。
 恋してるのは本当かと尋ねられたのは最初だけで、憧れですと濁して以降ずっとこちらの気持ちを探らずに居てくれたのは、探るまでもなかったってことなのかも知れない。どんどんと育つ恋情を必死で隠していた意識もないし、ダダ漏れだったよと言われたら、そうですかとしか返しようがないなとは思う。
 でも、そう思ってたって、実際にそれを口に出すかはまた別だ。それを認めるわけにはいかないのだから。
「あこがれです、って言いました」
「うん。聞いたね」
「恋人には、なれません」
「なんで?」
「なんで?」
 思わず同じ言葉で問い返してしまった。
「好きの名前が憧れでも、俺は構わないよ。その憧れは、俺からすれば限りなく、恋してるに近いものだから」
 左頬に彼の少し冷たい手が触れる。自分の頬が熱くなっているのか、それとも彼の手が冷えているのか、もしくはその両方か。
 意識が自分の頬とそこに触れる彼の指先に向かってしまったのは一瞬なのに、その一瞬で元々詰められていた距離が更に縮まっていた。正しくは彼が顔を寄せてきたってだけなのだけれど、間近に迫る彼の顔に息を呑む事しかできなかった。
 唇に彼の唇が柔らかに押し当てられるのを、ただただ黙って見守ってしまったのは、まぶたを落とすことも出来ないくらい硬直しきっていたからだ。
「ほら、びっくりはしてても、嫌悪感はないだろう?」
 ゆったり触れ合うだけのキスを終えた彼は、優しい顔でこちらを見つめている。
 どれだけ口先で憧れだって言ったって、恋情なんだと見抜かれている。軽いキス程度の触れ合いは平気だと確信されている。じゃなければ、勝手にキスを奪っておいて、そんな優しい顔は出来ないだろう。
「そう、ですね。確かに、あなたとのキスに嫌悪感はなかった」
「だったら」
「でも」
 付き合えるだろうと言いかける相手の言葉を、強い声で遮った。相手はさすがに少し驚いた顔をしている。
「でも、男同士で付き合うってことへの偏見と嫌悪感は、あります」
 驚いた顔のまま、相手は未だ寄り気味だった顔と体を離していく。驚きが困り顔に変わっていく様を、なんだか申し訳ない気持ちで眺めていたら、相手はそっと目を閉じ天を仰いだ後、次には俯き大きく息を吐きだした。
 そうしてから再度まっすぐにこちらを見つめる彼は、何かを振り切って、どこかスッキリした顔をしている。
「わかった。困らせるようなこと言って、キスまで奪って、ごめんね」
「いえ。俺こそ、すみません」
「謝らないでよ。どう考えても、今日のは俺が悪い」
 言っていいか迷ってたって言ったろと続けた彼は、断られるのもわかってたんだよと苦笑してみせる。
「好意だけはめちゃくちゃ伝わってきてたから、好かれてる自信はあったんだけどね。男も恋愛対象になるよってことも、本気で恋人になってもいいって思ってるよとまで伝えてあったのに、ずっと告白っぽいことは一切してくれなかったから」
 もう一度、わかってたんだよと、彼はまるで彼自身に言い聞かすかのように繰り返した。

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追いかけて追いかけて4

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 彼とはその後、平均したら月に一度くらいの間隔で食事に行くような仲になった。学年は少し離れているけれどサークルもゼミも同じなわけだから、共通の話題には事欠かない。こちらの卒研の話もすんなり通じるし、相手の仕事の話を聞くのも楽しくて、好きだと思う気持ちはあっさり育っていったけれど、だからって何かが大きく変わるような事はなかった。
 好きだという気持ちが大きくなったからって、それを相手に伝えることはしなかったし、相手もあれ以降、恋人だの付き合うだのという話を持ち出すことはしていない。二回ほど話題の映画を一緒に見たりもしたけれど、それも話の流れでなんとなく一緒に行くことになっただけで、当然デートなんて感じではなかった。
 逆にそれが、自分にとっては心地良かったとも言える。叶える気のない恋だけど、好きな人と二人っきりで過ごすことが出来るのはやはり嬉しい。でも叶える気がない恋だから、こちらの気持ちを探られたり、恋人になろうとか付き合おうなんて言われたら困ってしまう。その誘いに乗れなくなってしまう。
 そんなわけで、自分はひたすら彼と過ごすその時間を楽しんでいたけれど、彼が何を思って自分を誘い続けるのかは知らないままだった。何が出てくるかわからないのに、自ら藪を突く気もない。
 飽きられて誘われなくなったらそれまでと思いながらも、院に進学してもこの関係が続いたらいいな、なんて思いが崩れたのは卒研発表を終えて後は卒業を待つばかりという時期だった。
 たまに連絡は取り合っていたものの、彼と直接会うのは年末に会って以来だ。いや違う。正確には、二人きりで会うのが年末以来だ。なぜなら卒研発表の場に、半分仕事と言いながらもちゃっかり彼が来ていたせいだ。
 年末に会った時、ラストスパートだろうから次に会うのは卒研発表後だなと言われていたせいもあって、めちゃくちゃ驚いたし無駄に緊張したけど、でもそれ以上に嬉しかった。発表のあった週の終わりに、さっそく食事に誘ってくれたのも嬉しかった。お疲れ様ってことで今日は全部奢るから少し贅沢しようよって、雰囲気のいい個室居酒屋を予約されてたのだって、ただただその気遣いが嬉しいだけだったのに。
 空気が変わった瞬間ははっきりと覚えている。その日の話題は当然卒研の中身がメインだったけれど、一息ついた後は春休みの話題になった。卒業を待つばかりと言っても院への進学は決定しているから、春休み中だってそれなりにゼミには顔をだす予定だという話をしていて、ついでのように大学近辺の不動産屋を巡る話も出した。
 ゼミは違うけれど結構親しくしている同期生で、同じように院に進学が決まっている男が居るのだが、ルームシェアを持ちかけられて受けたのだ。ルームシェアと言っても、ゼミに泊まり込みそうな時の避難場所が欲しくないかって感じで、余裕があればちゃんと自宅へ帰るつもりだし、一緒にそこに住んで生活しようという話ではない。
 それでもその話を出した瞬間、一瞬変な顔をした彼は、その後も暫く何かを考えているようだった。そして一度トイレに立った後、戻ってきた時には元の席には腰を下ろさず、こちらのすぐ隣に腰を下ろした。二人用の小さな個室なので、僅かな空きスペースにむりやり座った感もそのせいの圧迫感も酷くて、一気に焦った記憶がある。
「告白していい?」
「え?」
「今日、個室のお店を選んで連れてきたのは、最初っからそういうつもりもあったんだけど、でも本当に言ってしまっていいかずっと迷ってた。迷って言えずに居たことを、今、結構後悔してる」
 本当に苦しそうな顔を、焦りながらもどこかぼんやりとした纏まりのない思考とともに、ただただ見つめてしまう。卒研発表が終わった開放感やらも手伝って、いつもより少し飲みすぎていたのかもしれない。

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追いかけて追いかけて3

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 うっとり、かどうかはわからないが、ぼんやりと見惚れるこちらの視線に気づいた様子で楽しげな笑いが柔らかで静かな笑みになった。そんな優しい顔で見つめ返されると、ますます好きだって思ってしまう。
「ねぇ、昔連絡先交換したけど、あれ変わってない?」
「あ、はい」
「俺も変えてない。まだ残ってる? 消しちゃった?」
「残ってます」
「よし。じゃあちょっと今後を見据えて、もう少し深く交流してみようか」
「今後を見据えて、深く、交流……」
 意味を確かめるように、彼の言葉を繰り返す。繰り返した所で、意味は今ひとつわからなかったけれど。
「恋愛に男女の拘りないから、取り敢えずお付き合いしてみようか、ってのでもいいんだけど」
「ぅえっ?」
「恋人になってみる?」
 かわかわれているんだろうか。なりたいですって言っていいんだろうか。わからなくてやっぱり固まってしまう自分に、彼は優しげに、本心だけど本気じゃないよと続ける。ホント、意味がわからない。
「恋人になってみてもいいって気持ちは本当。でも恋人になろうって本気で誘ってるわけじゃないってこと。わかる?」
「なんとなく」
「なら今度連絡していい? 飯食いに行こうとか、まずはそんな感じで」
「あ、はい。ぜひ」
 本当なら嬉しい。恋は自覚してても恋人になりたいなんて思ったことはなくて、恋人云々の話は正直全く実感もわかなければ彼と付き合う想像も出来ないけれど、今度一緒に食事に行こうって話は単純でわかりやすく、そしてめちゃくちゃ魅力的だった。
「じゃあ近いうちに連絡する」
 もう研究室に用はないという彼とはそこで別れ、一人研究室へ戻る途中、携帯が着信を告げて震えた。メッセージの差出人は別れたばかりの彼で、確かに近いうちにと言っていたけれど、あまりに近すぎて驚く。
 どうやら互いに変わっていないと言った連絡先を、それでも一応確認しておこうという事らしい。ついでのように、どんな店が好きとか食べたいものとか嫌いなものとかを聞かれていたから、正直に好きなものと少し苦手なものを返信しながら気遣いがマメだなと思う。それと同時に、きっとモテるんだろうなとも思ってしまった。
 そうだ。今の彼なら当たり前にモテるだろう。見ず知らずの新入生に声を掛けて、お金まで貸してくれるような優しさだけじゃない。直接の交流はサークルでの僅かな時間しかないけれど、気が利いて聡明で、周りの人をよく見ていて場を取り持つのが上手いのは知ってる。院生時代はちょっと身形に構わなすぎだったけれど、社会人になってスーツを着こなす彼は見た目までも格好良くなってしまった。
 工学部ってだけでも女性はめちゃくちゃ少ないし、大学院なんてもっと男性率が高くなるし、サークルの男女比はどちらかに偏るってことはなかったけれど、あの身形な上に明らかに多忙そうで女子からの受けはあまり良くなかったから、彼がモテるなんてイメージはまるでなかったのに。
 モテそうだと思ったらますます、わざわざ男の自分相手に誘うような真似をする意味がわからない。性別に拘らないのだったら尚更、女性を相手にしたほうが良いに決まってる。自分自身、恋を自覚した時に男同士じゃどうしようもないなって思ってしまった程度の偏見はあるし、やっぱり男女の恋人が当たり前な世の中なんだから。
 からかわれてるとは思いたくないから、恋人になってもいいって言ってくれた気持ちは信じるけれど、でも今後どれだけ親しくなれても、彼とそんな関係になることを望むのはやめておこうと思った。

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追いかけて追いかけて2

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 聞いていた通りハードで、そちらに時間を取られサークルにはあまり顔を出せなくなったけれど、院にまで進んだ彼を教授はよく覚えていたし、研究室に通うのはたまらなく楽しかった。あまりに彼の話題を振るものだから、教授にはからかうみたいにまるで恋でもしてるみたいだと言われてしまったけれど、でもそのお陰で腑に落ちた。恋って凄い。ただまぁ、やっと自覚できた所で、何が出来るわけでもないのだけれど。だって男同士だし。彼とはもう二年以上会ってないし。
 それでもやっぱり、このまま自分も彼と同じように院に進むのかもしれない。そしてあわよくば、彼の通う会社に自分も入社したい。少しでも近づきたい。自覚した恋心がどう働くのかはちょっと不安だけれど、でもきっと、彼が幸せそうであるなら、それを遠くから眺めているだけだってそれなりに満足出来てしまうだろう。
 ぼんやりそんな未来を思い描いていた、四年に上がった春の午後。研究室のドアが軽く叩かれた後、扉を開けて入ってきたのはひょろりと背の高い男だった。
 その男は、こちらに気づくと久しぶりだなと苦笑する。彼だ。無精髭なんか一切なく綺麗に剃られた顎と切り揃えられた髪。ピシリとスーツを着こなし、まるで別人みたいにカッコイイ見た目になっているけれど、間違いなく彼だ。
 教授にアポは取ってあると言って、その後隣室で暫く教授と話した後、今度は自分に向かって少し話がしたいと言う。なんだろうと思いながらも、久々に会えたことで舞い上がっていて、促されるまま近くの学食へ向かった。
 ランチタイム以外はまばらにしか利用者のいない学食の端っこで、コーヒーを奢って貰いながら彼の話を聞く。
 訪問理由はざっくり言うと、会社の人事部から、ちょっと後輩勧誘してこいよって言われたらしい。それを言われるってことは、もしかしてここで行きたいですって言ったら、彼と同じ会社に入社できる確率が大幅アップってことなんだろうか?
 行きたいって言っていいのか迷うこちらに、彼はやっぱり少し困った様子で笑いながら言葉を続ける。
「うちの会社に興味ある? それとも、興味があるのは、俺? 俺に、恋してるって、本当?」
 教授だ。きっと面白おかしく話して聞かせたんだろう。一気に顔が熱くなって、これじゃまるでそうですと肯定しているみたいだと思いながらも、どうにも出来なかった。
「あ、こがれ……です」
 でもやっぱり恋してますと正直に言っていいわけがないから、むりやりに言葉を絞り出す。
「憧れか。うんでも、憧れでも恋でも、ここまで追って貰えるってのはなかなか感動的ではあるよね。というか凄いね」
「凄い、ってなに、が」
「成績優秀なんだねって話。転部なんてなかなかやろうと思っても実行できないし、あの研究室だって毎年それなりに人気あるはずだし、教授も褒めてたよ。ちなみにさっき、お前の会社になどやらんって言われたわけだけど」
「なんですそれ」
「教授はすっかり、院に進むものだって思ってるみたいだけど実際どうなの」
「あー……まぁ、そうなるかな、とは思ってて、一応親も、良いとは言ってくれてて」
「それも俺を追いかけて?」
 今度はどこか面白そうに聞かれて、肯定できるわけもなく固まってしまう。彼はごめん意地悪だったと言って楽しげに笑った。その笑顔を見ながら、やっぱり好きだなと思う。

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