結局、アウェイで行われる次節試合への帯同を許されなかったのは神崎だけだった。怪我でもないのにベンチ入りすら許されなかったのは随分と久しぶりで、本来なら悔しがるべき所だろう。けれど神崎は、どこかホッとした気持ちでそれを受け入れた。
連帯責任、という言葉では何かが間違っているとは思うが、遠井ごと居残りにならなかったことがまず一つ。
遠井本人は自分自身の未熟さだからなどと言っていたが、小さな歯車が一つ狂うだけでも全体に影響してしまうことは多々あって、今回の場合、最初の狂いは神崎から起こしたものである。というのは間違いようもない事実だった。これで本当に遠井が試合に出られなかったら、先日豊島に指摘されたように、ますます色々と精神的負担を背負い込む羽目になっていただろう。
二つ目は、今の精神状態で遠井と共に試合に出なくて済んだ、という点。
今の自分の状態の悪さは、誰に指摘されるでもなく、神崎自身も良くわかっていた。とてもじゃないけれど、遠井と同じピッチに立ってサッカーが出来るとは思えない。それどころか、前はもう少しマシだったはずなのに、気持ちの切り替えがまったく上手く行かず、遠井が近くに居ない時ですら変なミスを多発していた。だから、試合に出せる状態じゃないと言われても、納得する以外にない。というよりも、今の状態で試合に出ろと言われる方がよほど辛かった。
だからと言って、この競争社会で、今の状態を良しとしていいわけもない。自ら打破できなければ、置いていかれ、やがては忘れられていく。活躍できる場所は限られていて、それでも毎年新しい選手が何人も入団してくるのだから、役に立てない者は去るしかないのだ。そして、そういう世界に、自ら望んで所属しているのだということも、嫌というほどわかっていた。
しかし、そんな風に幾分冷静に思考できる余裕が持てるのはサッカーに関する事だけで、それは今までの経験と知識が神崎に与えるものだ。そしてそれとは逆に、一向に何の進展も見えぬままに停滞する思考は、遠井に対する気持ちだった。
バカみたいに何度も繰り返し思い出してしまう、引き寄せる強い腕と、甘い声と、抱きしめられるぬくもり。思い返すだけでドキドキがあっという間に加速して、奇声を上げながら走り出したい気分に駆られるそんな気持ちを、どうすればいいのかわからない。
仮に、相手が遠井でなく可愛い女の子だったら、これは恋と呼べる想いなんだろうかとも考えてみた。けれど、数少ない過去の恋愛を思い返しても、いまいち判断がつきかねる。
抱きしめたり甘えられたりで多少ときめいたことはあっても、その逆は恥ずかしさが先に立ってしまってダメだった記憶しかない。変に世話を焼きたがる子よりも、甘えたがりの子との方がまだ、幾分気楽に付き合えた。
なのに今回はどうだろう。
相手は神崎よりもガタイの大きな、年だってかなり上の、しかも男だ。そして神崎の事を、まるで年の離れた弟を構うように世話を焼く。それなのに、抱きしめられ、甘やかすような声で囁かれただけで、今まで経験したことがないほど、心臓がバクバクと伸縮を繰り返した。緊張はしたが嫌悪の感情はなく、泣きたくなったのは決して悲しいからではなかった。
持て余す感情になんの解決策も見出せないまま、繰り返すだけの思い出に、グラグラと気持ちばかり揺さぶられる日々が着々と過ぎていく。
もう一度、あの暖かな腕の中で、あの甘い声を聞いて見たい。
きっとそれが神崎の中に根付く本心で、けれどそれを認めるわけにはいかないことも本能で察知している。繰り返す無意識の否定と、そちらへ行きかける思考の拒絶が、停滞する現状を生み出していると言えた。
箱ビール持って謝りに行けば許して貰えるらしいから行って来いよ。などという、わけがわからない助言を同期の友人から貰ったのは、神崎が帯同できなかったアウェイ試合の翌朝で、チームの練習はオフだった。
「ちょ、少し落ち着けよ、翔太」
「充分落ち着いてるって」
「どこがだよ。意味わかんねぇよ」
「だーかーらー、遠井さんだよ。お前、あの人んちでゲロって怒らせたんだろ? だからビール! ビール、箱で買って持ってきたら許してもいいってよ。ほら、早く行け。今すぐ行けっ」
朝っぱらからいきなり部屋に押し掛けて来てのそんな言葉に、何の話かわからず目を白黒させる神崎に焦れたようで、各務翔太はそうまくしたてる。
「えっ、って、それ、ハルさんがそう言ったのか?」
「そう言ってたらしい、ってのを昨日の夜、聞いた。お前もさ、あんだけよくして貰っといてそんなことしちゃったら合わす顔ないってのもわからなくないけどさ、いつまでもこんな状態嫌だろ?」
だから行って来いよと再度促されて、神崎はその勢いに押されるように、わかったと頷いて見せた。各務はようやく少しホッとしたような顔をして、絶対行け、今すぐ行け、と念を押してから帰って行く。来たときも唐突だったが、去るのもあっさりと躊躇いがない。本当に、それだけを伝えに来たらしい。
パタンとドアが閉まり、シンと静まり返った玄関先に立ち尽くしながら、神崎はマズイなと思った。神崎の不調の原因はもちろん、遠井を怒らせたからなどというものではなかったし、そもそもあの日の朝、遠井は怒っていなかったはずだ。
大丈夫だと笑ってくれたから深く考えもせず、というよりも、自分の中に湧いてしまった混乱に気を取られて、記憶がなくなるほどに泥酔し、吐き、それの片付けを遠井にやらせたあげく、自分はさっさと家主のベッドを借りて眠っていたのだ、という事実に対して、謝罪どころか礼の言葉一つ告げてはいない。そのくせ、その後の一週間、まともに顔も合わせられないほどの動揺が続いていて、遠井の前から逃げ続けてしまった。
自分のことばかりに手いっぱいで考えもしなかったけれど、酔って吐いてしまったことそのものに対しては怒っていなかったかも知れない遠井も、その後の神崎の態度に怒りを感じたとしてもなんら不思議はない。
それに加えて、先日といい、今といい、遠井に対する態度のあからさまな変容に、色々な人に心配を掛けている。それをうざったいと感じ、放っておいて欲しいと思う気持ちもないわけではないが、こうして気に掛けてくれる人間が、自分の周りに居るということがどんなに有難いかも知っていた。
情けない、と思う。
遠井の前に立つだけで、緊張と混乱で何を言ってしまうか、してしまうか、わからない。などという理由で、自分はいつまで逃げ続けるのか。まずは謝罪と感謝の気持ちを伝えて、それから、これから先のことを少しだけでも相談してみようと思った。
同じ男で、今までは少し仲が良い程度だった後輩に、近くに居ると意識し過ぎて緊張して動悸が止まらなくなって混乱する、などと告げられても困るどころかドン引きの可能性も高いから、できるなら何も言わずに気持ちが落ち着くのを待ちたかったけれど、そんな呑気なことを言っていられる状況ではなさそうだ。
(たとえ何を言われようと、前へ進むしかないんだから、覚悟を決めろ)
そう自分に言い聞かせて、神崎はヨシ、と呟き壁に掛かった時計へ目をやった。今すぐ寮を出ても、さすがに酒屋は開いていない。謝罪しに行くことを考えれば、やはり身奇麗にしておくべきだろう。少しだけ迷った後、神崎はバスルームへ向かった。
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